(かなりライトな(笑)バージョンです。ハードバージョンは『倶楽部・雪月花』で公開します) −魂は東の君に− 池田屋外伝
元治元年(1864)六月一日 京都
「歳!やったな、大手柄だ」
新選組局長近藤勇は流れる汗を拭いながら、副長土方歳三の部屋へ入って来た。
「うむ」
歳三は机の前に座ったまま勇の方を見もせず、無表情に頷いた。色の白い、男にしては美しすぎる程の冷淡な面。勇はその顔を一瞥すると、歳三の横に座っている青年に声をかけた。
「総司はもう聞いたのか」
新選組一の使い手と言われた沖田総司である。
「ええ、肥後の宮部鼎蔵の下僕を南禅寺で捕えたことでしょう」
「そうだ」
勇は二人の側に腰を下ろした。うだるような暑さが辺りを包む。京の夏は暑い。
「宮部といえば、倒幕派の大物だ。何としても捕えなければならぬ。捕えた下僕をどう使ったら良いだろうな、歳」
「泳がすしかあるまい」
歳三はにべもなく答えた.
「せっかく捕えたのにか?」
勇が不満そうに言うと、
「それに、捕えてすぐに放したのでは逆に怪しまれますよ」と、総司も口を挟んだ。
「わかっている。だから南禅寺の山門にでも晒しておけば良い。形ばかりの見張りを付けてな。奴らはきっと何らかの方法で助けようとするだろう」
「その時、見逃せばいいのですね」
「そうだ。ただしその後をしっかりとつけろよ。恐らく奴は、宮部の処へ案内してくれるはずだからな」
「分かりました。南禅寺へ行って来ます」
総司は慌ただしく部屋を出て行った。「拷問するより確かかね」
二人きりになった後、勇が疑うような視線を向けた。
「確かさ。あの忠蔵という下僕はそう簡単に口を割らないだろうよ」
「さすがによく知っているな、歳」
勇は吐き捨てるように言った。
「俺は知ってるんだぜ、お前と宮部のことを」
歳三の頬が僅かにこわばるのを、勇は見逃さなかった。
* * *
新選組が結成されて間もない一年前の文久三年(1863)初夏。
歳三は新入隊士数人と、江戸にいた頃からの同志で今は隊の幹部である永倉新八を連れて市内を巡察していた。
この頃の京都は倒幕を企む不穏分子の活動が烈しく、暗殺が相次いでいた。幕府の権威も今は昔の面影もなく、三百年間の安泰の上で胡座をかいていた大名や旗本達には、とても倒幕派に対抗する知恵も力もなかった。
そんな中で新選組は、京都守護職会津藩のもと、幕府を守る先鋒として結成された。
昨今、よく「新選組は暗殺集団だ」の「テロリストだ」の言われるが、これは幕末の状況や新選組の立場というものを理解していない人間の言うことであって、新選組は、会津藩京都守護職支配下の役人なのだ。れっきとした警察隊の一グループなのである。私はかえってそれに刃向かう倒幕派の方がテロリストに近いものがあると思っている。
歴史とは勝者が作るもの。[勝てば官軍]なのである。
閑話休題。
さて、歳三である。
四条大橋を東へ渡ろうという時に、向こうから一人の男が歩いて来た。年40を少し越えている。歳三はその男を認めると一瞬息を詰めた。
「どうかしたのか」
隣を歩いていた永倉が歳三の微妙な変化に気付いた。
「いや、なんでもない」
歳三はなにげない顔で歩を進めた。だが、心臓の鼓動は激しく打っている。
(宮部・・・鼎蔵・・・!)
土方歳三は武州日野石田村の豪農の四男に生まれた。母の胎内にあるとき父を失い、五才で母に死なれた。
末っ子であった歳三は、10才の時に上野の呉服屋に奉公に出されたが、長くは続かず、ある夜一晩歩き通しで日野の実家に帰って来たという。場所柄、法衣なども扱っていただろう。稚児のように美しかった歳三は、法衣を求めに来る坊主たちに厭なことをされたことも、あったのではあるまいか。
17才のときもやはり江戸に奉公に出た。しかし、眉目秀麗の歳三、女中と間違いを起こし、ここでも長続きはしなかった。この二度目の奉公も呉服屋だったというから、歳三のその容貌から、店先に座らせておけば飾りものになる、と考えられていたのかもしれない。しかし、外見とは違い、内面はそんなヤワな男ではなかった。
二度目の奉公をしていたこの年に、歳三は、吉田松陰と共に東北地方を遊歴しようとしていた宮部鼎蔵と知り合った。と言っても歳三はこの時さほど覚えていた訳ではない。宮部の方が歳三を強く記憶していた。二人が再会したのは二年後、歳三が19才、宮部が34才の時である。
宮部の家は代々医業を営んでいたが、鼎蔵は伯父増実の養子となって肥後藩に召し出され、この嘉永六年、老臣有吉頼母に随って江戸に出てきていた。
歳三は既にこの時、幼馴染みで一つ年上の近藤勇と、心も体も離れられない関係になっていた。決して勇を裏切る気はなかった。今となっては若気の過ちとしか言いようがない。けれどこの時、どことなく勇に似ている宮部の人柄や情熱にほだされて、請われるまま、一夜だけ共に過ごしてしまったのだった。やがて2人は敵同志になるなどとは夢にも思わずに・・・
そして今、京の四条大橋の上で、29才の歳三は12年振りに宮部と顔を合わせた。二人は三尺(90cm)程の間をおいて立ち止まった。
「久し振りだ。まさか君とここで会うとは思わなかったよ、歳三君」
宮部が先に口を開いた。
「私もです」
白の単衣に縞の袴を付けた歳三を宮部は食い入るように見詰めた。
「元気そうだね。それに相変わらず・・」
「隊務が」
歳三は宮部にその先を言わせなかった。
「・・隊務がありますので、失礼」
宮部の脇を擦り抜けようとした時、宮部が低く叫んだ。
「歳三!」
右腕を掴まれた。二人の目が合う。
「放して下さい・・・」
静かに言いながら歳三は、宮部の手を振り払うと振り向きもせず歩き始めた。距離をおいて見守っていた永倉や隊士たちが慌ててその後を追って行く。
(歳三・・・)
宮部は遠ざかって行く背中をいつまでも見ていた。
その日の夕方
「土方さん、客だ」
永倉がその癖で、いきなり歳三の部屋の障子を開けた。この時、歳三は総司と談笑しているところだった。
「文を持ってきたってさ」
「ふみ?」
歳三は怪訝な顔をした。
「手が早いなあ、土方さん。もう馴染みのひとができたんですか?」
「馬鹿言うな、総司」
苦い顔で睨んだ。
「いないと言え!でしょう?」総司が笑いながら言葉を継ぐ。
「江戸ではいつもそうでしたよね、泣いた女の数知れず・・・」
謡うように言うと、面白そうに歳三の顔を見た。
「追い返していいのかね、土方さんよ」
永倉が言った。
「ああ」
「・・けど、女じゃないみたいだぜ。今日四条で会った人の使いと言ってるからねえ」
永倉はじっと歳三を見た。
「・・・関係ねえ、追い返せ」怒ったように答えた。
「でもねえ、土方さんに会うまではテコでも動かねえって言ってるよ」
「・・・・」
歳三が舌打ちしながら式台へ出ると、そこにはこざっぱりした身なりの男がいた。
「俺が土方だが・・」
男は放心したような顔で歳三を見詰めた。人とは思えぬほどの美貌の面がそこにある。
美しい、というだけならば、島原や江戸の芳町の売れっ妓や、役者にもごろごろいる。が、それは淫靡で媚びを含んだ美しさに過ぎない。
凛と気高く、触れれば鋭い刃で斬られそうな冷たさと、怜悧な眼差しを持った美しさは、芳町あたりの男や役者崩れのなよついた美男には、見あたらないものだろう。明日をも知れぬ緊張感と共に、生死の狭間で生きている男の覚悟を持った美しさは、女には決してないものだ。
媚態もなく、華やかな衣装を纏っているわけでもないのに目映(マブシ)いほど豪華に見えるのは、彼の内面から滲んでくるものなのだろうか。
男にも女にもない至上の美しさを、歳三は持っていた。「用はなんだ」
言われて男は我に返った。
「・・へっ・へえ、手前は宮部様の使いの忠蔵と申します。これを主人より預かって参りました」
忠蔵は一葉の文を差し出した。歳三は受け取ろうともしない。
「・・・読むまでもない。どうせ、会いたいというのだろう」
すらりと背の高い歳三は腕を組みながら忠蔵を見下ろすように言った。
「・・へえ、その通りで」
「帰ったら伝えてくれ。俺はあんたのことなど、とうに忘れているとな」
「土方様、主人が待っております。どうか私めとご一緒に・・・」
「断る」
「お連れするまで、手前はここを、動きませぬ」
「勝手にしろ!」
歳三は踵を返した。
「お待ち下さい、土方様!・・主人はすぐそこ、門の外まで来ております」
歳三の足が止まった。その背中に向かって忠蔵は続けた。
「私めと共に出ていただかなければ、ここに乗り込んで来られるかも知れませぬ」
歳三がゆっくりと振り向く。忠蔵はその顔をじっと見詰めた。
歳三は宮部と共に、ある料亭の座敷にいる。
「随分と卑怯ななされ方ですな、宮部さん」
「まあ、そう言わずに」
徳利を差し出したが、歳三はそれに構わず手酌で飲んだ。宮部は苦笑いをすると、自分も酌をしながら言った。
「随分と嫌われているようだな・・」
「あなたのやり方が狡いからですよ」
「・・・私に乗り込まれてはまずい人が側にいるのかな」
口元まで運んだ酒を、歳三はふと止めたが、すぐに一気に煽った。
「済まないことをしたと思っている。だが、こうしなければ君は会ってくれなかったろう。・・許してくれ」
歳三は盃を置いた。もともと嫌っていた訳ではない。
「いいですよ、もう・・」
──────。
外はもう暮れかかっている。
ひとしきり話が弾み、しばらくの沈黙の後ふいに宮部が言った。
「この12年間、私がどんな想いでいたかなどと、くどく言うのはやめよう。ただ君のことを一日たりとも忘れたことはなかった」
「・・・・・」
歳三は手の中で盃をもてあそんでいる。
「・・・私の側にいてくれないか。どうしても君が必要なのだ」
「そういう話なら・・・」歳三はコトリと、盃を置いた。「・・・帰ります」
立ち上がろうとした歳三の手を、とっさに宮部は掴んだ。
「何故だ・・・そんなに近藤に惚れているのか」
「・・・昔から、近藤と生死を共にすると決めています」
「じゃあ何故12年前、私と」
「何があろうと・・・」歳三は宮部の言葉を遮った。「・・・あの人から離れる気はない」
歳三の偽らざる本心だった。
「近藤め・・・憎い・・殺してやりたいほど憎い男だ!」
宮部は歳三の手首を離そうとはしなかった。
* * *
それから一年。宮部は倒幕派の大物として、新選組に追われる立場になっていた。
「お前、宮部に惚れているのか。捕えた下僕を放すなど、宮部に情けをかけているんじゃないだろうな」
歳三の私室で勇は話を続けていた。
「俺は新選組の副長だ。自分の立場というものは分かっている。それに・・」
「それに?」
「宮部に惚れたことなど、ない」
「・・・そうかね」
「南禅寺へ行って来る」
歳三は振り切るように立ち上がった。
陽はまだ高く蒸すように暑い。壬生の屯所から南禅寺まで、歳三の足で半刻もかからない。四条を東へ進み、木屋町を北上しようとした時、左右の路地に殺気を感じた。
「む・・」
歳三はぐっと体を低く沈めながら、鯉口を切った。そのまま、左から襲って来た男の胴を抜打ちに払うと、返す刀で右の男を袈裟がけに斬り下げた。
「何者だ」
息も乱さず問うた。あと二人残っている。
「土方だろう、新選組の」
一人の男が言った。
「腕前もさることながら、その体つきも上物だな。噂以上だ。生け捕って味わってみてえもんだ」
「誰に頼まれた」
歳三は中段の構え。
「問答無用!」
もう一人の男が真っ向から振りかぶって来る。歳三はそれを軽く擦り上げると、刀を大きく旋回させ逆袈裟に斬り上げた。痺れるようないい手応えを感じた。男は声も立てずに血煙を上げて、どう、と倒れた。
「さて残るはお前さん一人だ。どうするね」
歳三は右足を引き、左諸手上段に刀を構えた。[火の構え]と言われる烈しい構えである。上背のある歳三が構えると、一層鮮やかに決まる。
「・・ちく・・しょう、覚えてろよ、土方!」
男は踵を返して逃げて行った。
「ふん」
歳三は追いもせず、血振りをして懐紙で刃を拭い、刀を鞘におさめた。
歳三、剣術は相当なものであったらしい。特に敵と斬り合いになった時の凄さというものは新選組内の暴れ者が息をのむほどで、それは強かったという。
抜打ちが滅法早かったというその愛刀は和泉守兼定二尺八寸。
その後。
歳三の思惑どうり、泳がされた忠蔵は河原町四条を少し上がったところにある[枡屋]という小道具屋へ駆け込んだ。ここで見張りを始めてからもう三日たつ。
見張りの報告によると、そこに出入りしているのは町人のなりはしているが、面擦れのある奴らばかり、つまり、武士が変装しているのではないか、とう事だった。
「やはり怪しいようだな」
局長室で、勇と歳三は向かい合って座っていた。
「宮部一人を追ってはみたが、結果、芋づる式にでてきそうだな。お前の策が当たったようだ」
勇は、ぱたぱたと扇子を動かしている。今日も蒸し暑い。
「そろそろ踏み込んでみても良いと思う」
「しかし、早まってはいけねえよ、歳」
「機を逃してもいけねえ」
「・・歳、お前、宮部を斬れるか」
「斬れるさ」
「・・・抱かれたことあるんだろう」
歳三の目を覗き込むように言った。
「・・・誰が、そんなこと言ったんだ」
「答えろ、歳」
勇は歳三の腕を掴んだ。目が燃えている。年は歳三より一つ上の31才だが、二人は三〜四つ離れているように見えた。
「なんだ、あんたらしくもない」
歳三はなだめるように言った。
「お前は、俺を大名のようにすると言った。俺について来ると言った。俺のためなら犬馬の労も厭わないと言った。今も変わらないか」
「当たり前だ。俺はあんたの人柄が好きなんだ。あんたを桧舞台に立たせてやることが俺の夢だ、俺の生き甲斐だ」
「歳!」
勇は歳三の腕を引き、抱き寄せた。
「俺は、お前の心も体も俺一人のものにしておきたいんだ、わかるか」
「・・・・」
「不安なのだよ。お前が俺の手の中からするりと逃げてしまいそうで・・・」
風がないため空気が動かない。勇の額には汗が滲んでいる。
「どうしたんだ、勇さん・・」
歳三は目の前の勇の顔を、山鳩色の美しい瞳でじっと見詰めた。
「お前の気持ちは情け程度でも、俺はお前が好きだ。昔からずっと」
「何言ってんだ、いまさら・・」
「俺は嫉妬しているんだよ、宮部に」
勇は歳三の体を両腕で強く抱き締めた。
「お前は俺だけのものだ・・・誰にも渡さぬ」
「よせよ・・・」
歳三は小さくもがいたが、勇は構わず違うことを言った。
「歳、隊内で男色が流行っているのを知っているか」
「・・・・ああ」
「早耳の歳三だからな、知ってはいるだろうが、土方副長を抱いて朝を迎えられれば死んでもよいなどと、陰で不埓なことを言う奴も結構多いようだ。」
「・・・・・」
「もっともお前は剣も立つし、何と言っても鬼の副長だからな。目が合っただけでも切腹させられそうだと、平隊士が言っていた」
勇は可笑しそうに笑った。
「随分と怖がられているようだから余計な心配かも知れねえが、気を付けろよ」
「・・そう思ったら・・・昼間っからこんなことするな・・」
歳三は勇の胸を押した。
「済まねえ」勇は頭をかいた。
この頃、勇が故郷に宛てて書いた書簡が今も残っている。
─────当節婦人戯れ候事いささかもこれ無く
局中頻に男色流行仕り候─────
桝屋に踏み込み、書類を焼き払おうとしていて逃げ遅れた亭主喜右エ門事、勤皇の志士古高俊太郎を捕えたのは六月五日の朝だった。宮部はとうに逃げ去っていた。
古高を屯所に連行し拷問をかけ始めた。燃え残った書類から、御所に火をかけるなど、ただならぬ気配を読み取ったからだ。
「吐かぬか!!」
数人の隊士たちが白い稽古着を汗でしとどに濡らしながら、折れ弓をもってかわるがわる古高の体を打ちつけた。さすがに古高も倒幕派の大物だけあって、皮膚は裂け、血が飛び散っても呻き声ひとつ上げず、目を閉じ、歯を食いしばって耐えている。
「時々水をかけろ。殺してしまっては元も子もない」
打たれている古高よりも、打っている隊士たちのほうがバテているかのようだった。その時、
「局長、副長揃って出られます!」
という声が廊下の方から聞こえたかと思うと、勇と歳三が拷問部屋に入って来た。居合わせた隊士一同、手を止めて頭を下げた。
「構わん、続けたまえ」歳三が言った。
「はっ」
歳三の声を聞いて古高がうっすらと目を開け、
「君が、土方か」
と、低いが、はっきりした声で言った。
「後ろにいるのが、近藤勇だな」
「局長と副長に向かって何たる言い草!!」
隊士らが再び折れ弓で打ち始める。暫くそれをじっと見ていた後、歳三が声をかけた。
「そろそろ喋ったらどうだ。いつまでも耐え切れるものではあるまい」
「・・・宮部さんから・・聞いたが・・・いい体・・してるそうだな・・土方・・わしにも・・・楽しませて・・くれんか・・」
唇の端を歪めるようにして、古高がはっきりと言った。勇はぴくりと拳を震わせたが、歳三は表情を変えなかった。
「随分と勇ましいことだな、古高。まだそんな口が利けるところを見ると、隊士諸君の拷問は拷問になっていないようだ」
歳三は冷たい微笑をその端正な顔に浮かべながら、厳しい声で命じた。
「こいつを逆さに吊せ。それから釘と蝋燭をもって来い。拷問とはどんなものか俺が教えてやる」
歳三は、まず古高を逆さに吊し、その足の甲から五寸釘を打ち抜いた。そして足の裏から突き出た釘に百目蝋燭を立てたのだ。傷口に熱い蝋が流れ込み、古高は何度も悶絶した。その度に顔に水をかけ、気を取り戻させた。側で見ていた原田や永倉など、吐きそうな顔をして、土方さんはすげえことを知っている、などと囁き合っていた。
ついに古高がすべてを白状した時、その側には総司しかいなかった。余りの惨さに、さすがの暴れ者の隊士達も見ていられなかったのだという。
「なんだ、みんな逃げやがったか」
さすがに汗を拭いながら、歳三が言った。
「名実共に鬼を証明しましたね、土方さん」
「馬鹿なことを言ってる場合じゃねえ、近藤さんに報告だ」
古高の自白によると、倒幕派は六月二十日前後の風の強い日に、御所や市中に火をかけ、その騒ぎに乗じて天皇を長州に連れだすという過激な陰謀を企んでいるという。
「古高が捕まったことは奴らももう知っているだろう、この計画について必ず会合を開くに違いねえ」
局長室で幹部が顔を寄せていた。
「虱潰しにあたって、一網打尽にするか」
「総司、使える隊士は何人いる」
「三〜四十人・・ですかね」
「何故そんなに少ない。今、使える隊士は百人はいると思ったが」
勇が首を傾げた。
「食あたりです。下痢して寝てるんですよ」
「下痢が何だ。たたき起こせ!」
歳三がいらだたしげに言った。
「無茶ですよ。土方さんは毒を食らっても下痢一つしないから、あの苦しみは分からないでしょうけど・・・」
「何をいいやがる」
「こら、いい加減にせんか」
勇が苦笑して二人の間に入った。
総司にとって、この、隊内では鬼以上に恐れられている歳三の事が少しも怖くない。それどころか九才年上の歳三が力めば力むほど、可愛いくて、面白くて、たまらないのだ。小さい頃から兄弟のようにして育って来たせいでもあろうが、この青年にとって、怒っている歳三を逆にからかうことなど、赤子の手を捻るよりたやすいことなのだ。
「とにかく・・」
「土方副長はこちらですか」
廊下で隊士の声がした。
「ここにいる」
「ただ今戻りました」
障子を開けて一人の男がかしこまった。
「ああ、山崎くん御苦労だった、入りたまえ」
歳三は既に監察部の山崎烝を探索に出していた。この男を、歳三はかなり重用している。
「何か分かったか」
「三条小橋の池田屋で今夜、集まりがあるとか」
「今夜だと」勇が叫ぶように言った。
「時間がない、総司、すぐに支度を、山崎くんは引き続き情報の確認を頼む」
歳三は手早く指図を与えた。
この夜の事が史上有名な池田屋事件である。
その後情報が錯綜し、行く先は二手に分かれることになった。勇は沖田総司、永倉新八ら精鋭数人を引き連れて池田屋へ、歳三は残りの三十数人を連れて、四条縄手の四国屋へ向かった。
「亭主!御用改めである!」
池田屋の式台にあがり、勇はよく通る声で叫んだ。
「こ・・これは・・!!」
池田屋の亭主は、まろぶように出てくると、顔を青ざめさせた。物々しい出で立ちの新選組の猛者数人がそこにいる。
「改めさせてもらうぞ」
勇はずかずかと上にあがった。
「お・・・お待ちを・・!」
縋る亭主を振り切り、勇は構わず奥に進む。
「お客様方ッ!!御用改めでございますッ!!」
どうにもならないと踏んだ亭主が、二階に向かって叫んだ。
「二階か!」勇は階段に足をかけた。
「お客様っ!!お客様あっ!!」
亭主は声を涸らして叫んだが、聞こえていないのか二階では慌てる風もない。が、
「何を騒いでいるのだ」
と、階段の上から呑気に顔を出した男がいた。それが、階段を駆け上がっていった勇と鉢合わせをした。
「・・・!」
いきなり新選組が目の前に現れたのだ。男の驚きは尋常な物ではなかったろう。仲間に知らせようと叫ぶより早く、勇の刀が一閃した。声もなく倒れた男を踏み越え、勇ら数名は部屋に飛び込んだ。
これが池田屋事件の一太刀目である。
激闘一刻
新選組は勇を含め僅か数人、一方倒幕の浪士達は人数は多かったものの、戦闘の準備も何も出来ていなかったため、必死の防御、抵抗にもかかわらず、続々と命を落としていった。
戦いは屋内でも外でも行われている。暗い中で刃の打ち合う音や、呻き声が響く。
どこから襲われるかもわからない暗がりで、勇は滴る汗を拭いもせず、慎重に廊下を歩いた。足元が血で滑る。
二階に人影はないと思った勇が階段を下りようとした時、背後に気配を感じた。勇が振り向くのと、暗い部屋の中から声がしたのは殆ど同時だった。
「近藤勇か」
「・・・・」
勇は右手に下げていた血刀を構え、闇の中に目を凝らした。
「君が近藤勇か」
男はもう一度聞いた。落ちついた深みのある声だった。
「そうだ・・・・お主は、誰だ」
月の光が部屋に射し込んでいた。勇からは男の顔は逆光でよく見えないが、男からは勇の顔はよく見えたであろう。
「私は今日の集まりのまとめ役だった人間だ」
男はつぶやくように抑揚のない声で続けた。
「例え私を殺しても、我々の志はまだまだ引き継がれてゆく。悔しくはない。が、君に殺されるのだけは我慢がならぬ・・・・」
「なん・・・だと?」
「・・・宮部鼎蔵。私の名だ」
「!」
勇の体が大きく揺らいだ。ほんの一時とは言え、自分から歳三を奪った憎い男。
「貴様・・・」
倒幕派の大物としては勿論、個人的にも、絶対に許せるものではなかった。
「君は私が憎いだろう。が、私も君が憎いんだよ!」
宮部が絞り出すように言ったその時、階下で慌ただしい物音や声がした。
「勇さんっ!!総司!!」
二人の間に緊張が走る。紛れもない、それは歳三の声だった。
歳三の一隊は、四国屋を探ったものの、そちらには浪士は集まっておらず、急ぎ池田屋へ駆けて来たのだった。
「歳三だ・・・」
宮部がうっとりと言った。
「最期に逢えるとは夢のようだよ。私の想いが通じたのか・・・」
「逢わせるものかッ!!」
勇はもの凄い勢いで宮部に斬りかかった。が、宮部もまた必死に防御する。
「願わくば、歳三をもう一度抱きたかった」
息を荒げながらも、宮部ははっきりとそう言った。
「・・・ッ!!!」
勇の激怒は頂点に達していた。嫉妬と屈辱で気が狂いそうになる。この時、歳三が階段を駆け上がって来た。その美しい姿を見い出した途端、満足したように、宮部は自分の腹に刃を突き立てた。
「・・・!」
三人の姿がくっきりと月明かりに浮かぶ。
「さらばだ・・・・歳・・・三・・」
突き立てた刃をゆっくり右に引きながら、宮部は崩れていく。歳三はその姿を冷ややかな瞳で見詰めていた。その表情からは、戸惑いも憂いも哀しみも、何も感じ取る事は出来なかった。
「・・・無事で・・よかった・・・」
宮部の命の灯火が消えてゆくのを目の当たりにしながら、やがて歳三が口を開いた。
「ん?」
勇は思わず歳三の白い横顔に視線を向けた。
「あんたが無事でよかった・・・」
「・・・歳・・・」
歳三の隊が駆けつけて手勢が増えたためか、階下は瞬く間に片付いたらしい。打ち合いの音はもう聞こえてこない。
「・・・これからが大変だ。あんたも俺も忙しくなる」
歳三はやっと勇の顔を見た。その穏やかな表情を見て、勇は心が落ち着くのを感じた。
「お前が側にいてくれる限り、俺は何だってやる。何だって出来るよ。歳」
「ああ、あんたについて行く。死ぬまで・・・ずっとついて行く」
歳三の言葉に、勇は満足そうに頷いた。
この池田屋事件で、多くの志士が命を落とした。
このことで、明治維新が一年早まったとも、逆に遅れたとも言われている。
(終)(1990年作品)